音盤日誌『一日一枚』

<2001年1月>


ノン・ジャンル、新旧東西問わず、その日聴いたレコード・CDについての感想文です。

2001年1月6日(土)

ウィッシュボーン・アッシュ「ライヴ―タイムライン」(レシーヴァー)

アッシュのライヴといえば当然、二枚組の「ライヴ・デイト」やろな。わてらが高校1、2年のころはそれを聴いて「ブローイン・フリー」や「スロウ・ダウン・ザ・ソード」あたりのコピーにいそしんだもんや。

はて、それから幾星霜。アッシュつーても、ドラゴン・アッシュのことけ?なんて言う若人ばかりになってしもたが、今聴いても十分聴くにたえるバンドや。

このライヴ・アルバムは、1997年リリース。どれもオリジナル・メンバー、テッド・ターナーを含むラインナップや。ゆえに、近年のアッシュはどうも人が変わったんでイマイチ…という古くからのファンにもお薦めでける。

前掲の二曲のほか、「キング・ウィル・カム」「ヴァ・ディス」などのお馴染みのナンバーもあれば、よりヘビメタに近い「スタンディング・イン・ザ・レイン」のような新しめな曲もあるし、アンディの達者なスライド・ギターを前面にフィーチュアした「イン・ザ・スキン」のようなインスト曲もあって、いろいろと楽しめる。

それにしても、アンディ・パウエルのような「泣き」と「タメ」の正統派ギターをちゃんと弾けるプレイヤーが、最近は意外に少ないのう。たまにこういう「手堅い」音を聴くとほっとするのは、わてだけではあるまい。

アッシュのよさは、やはりライヴでこそ100%発揮されとる。歌も派手やないけど、ええ味があるし、買うて損はないで。

2001年1月7日(日)

ロイ・ブキャナン「ロイ・ブキャナン」(ポリドール)

あるギター・モデルの音、それもレアな音を聴きたいがために、聴くアルバムというのがある。たとえば、レスポールの音が聴きたいときには、ピーター・グリーン在籍時のフリートウッド・マック「英吉利の薔薇」を聴くというように。

私がフェンダー・テレキャスター、それもオールド・モデルの音を聴きたくなったときにかけるのが、このロイ・ブキャナンのデビュー・アルバムである。

ロイ・ブキャナン、「ストーンズに誘われた男」として有名なこの中年ギタリストは、もはやこの世にさえいない。

1972年に発表されたこのファースト・アルバムに、世間はど肝を抜かれた。アメリカの片田舎でプレイしているにすぎなかったこのロック親父に、全世界が注目した。

エフェクターなどほとんど使わずとも、魔術的な指先だけで生み出される革新的なギター・サウンド。もし生きていたらジミヘンも真っ青になったであろう、緩急自在のテクニック。

彼のプレイの基本は、脳天気なカントリー調だが、時には、思いもつかぬユニークなフレーズで、黒人以上に黒いブルースが紡ぎだされる。

ロイのサウンドは、その名がほとんど忘れ去られた今でも、多くのギタリストが無意識的に繰り出すフレーズの中に生き続けているといってよい。

それは、このアルバムを聴き直してみれば、すぐにわかるはずである。

2001年1月8日(月)

サム・クック「ザ・マン・アンド・ヒズ・ミュージック」(RCA)

「ソウルを発明した男」という4枚組ボックス・セットが好セールスの、不世出のR&Bシンガー、サム・クック。tbのホトケさんが好んでレパートリーにとりあげているシンガーでもある。

かくいう筆者も、昔、サムの「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー」をバンドのレパートリーに取り入れていたという前歴がある。実に懐かしい。

もはや生前の彼を知るひとも少数派になりつつあるが、いってみれば、現在隆盛を極めるクラブ・ミュージックも、彼なくしては生まれえなかったかも知れない。

ぜひクラバーな連中にも聴いてほしい。で、彼をはじめて聴くというひとには最適のベストアルバムが、この「ザ・マン・アンド・ヒズ・ミュージック」である。

ホトケさんお気に入りの初期ヒット「アイル・カム・ラニン・バック・トゥ・ユー」をはじめとして「ユー・センド・ミー」「チェイン・ギャング」「キューピッドあの子をねらえ」等のスマッシュ・ヒットはほぼ網羅されており、またゴスペル時代のレコーディングも含まれている。

声よし、曲よし、ルックスよし、ソフトなクルーナー唱法にもたけた文句なしのスター、サム・クックのハズレなしの全28曲が楽しめる。おトクでっせ。

2001年1月12日(金)

ウィリー・ディクスン「ビッグ・スリー・トリオ」(SME)

身も心も疲れはてて家にたどりついたとき、一杯の酒を掌中に耳を傾ければ、「まあ、気分をかえて、明日もがんばろうか」という気にさせてくれるのが、このアルバムである。

シカゴ・ブルース界の名プロデューサー、ウィリー・ディクスンにも現役プレイヤーだった時代があり、数々のレコーディングを残している。

それが、この「ビッグ・スリー・トリオ」である。

ピアノと歌のレナード・”ベイビー・ドゥ”・キャストン、ギターとコーラスのバナード・デニス(のちにオリー・クロフォードに代わる)、そしてベースとコーラスのウィリー・ディクスンの3人組は、1946年から52年にかけて、レコードそして巡演で大人気を博していた。

そのサウンドはブルースとジャズがまだ完全に分化しておらず、けっこうポップスっぽい要素もあり、後年のディクスンが生み出したハードなシカゴ・ブルースを期待して聴くと見事にズッコケるが、それはそれでなかなか聴きごたえがある。

特にキャストンの気合いの入ったスウィンギーなブギウギ・ピアノと、ディクスンのパーカッシヴなスラップ・ベース(パチンパチンとスナップをきかせた奏法)のかけ合いはなかなかカッコいい。

バラードあり、コミカルなノヴェルティ・ソングあり、もちろん、ディープなブルース曲もある。三人の息の合ったコーラスもまた、このグループのウリだ。美しいメロディ、生き生きとしたリズム、豊かなハーモニーがこの一枚につまっている。

いい音楽にジャンルわけなんて不要、このアルバムを聴くとそう思う。

2001年1月13日(土)

ザ・フー「ライヴ・アット・リーズ」(ポリドール)

70年代から、このアルバムをいったい何度聴いたことであろう。

だが、いまだに聴きあきるということが、この「ライヴ・アット・リーズ」に関しては、まるでない。

それくらいロックの名盤中の名盤であり、数あるライヴ録音の中でも間違いなく五指に入る傑作だと思う。

アナログ盤時代は7曲しか収録されていなかったが、CD化されたことで一気に14曲にふえ、もちろんコンサート全曲ではないのだが、彼らのライヴのスゴさがよりはっきりとわかるようになった。

「ヘヴン・アンド・ヘル」にはじまり、「マジック・バス」に終わる77分余り、ハードでありながらも、メロディアスなザ・フーならではの世界がそこにある。

編成が同じということや、ボーカリストのルックスが似ていることなどから、日本ではどうもZEPの亜流ハードロックバンドくらいの評価しか受けていないフシがあるが、どっこい、こちらのほうがキャリアもあるし、音楽的な引き出しの多さでもまったく負けていない。ことに、メンバー全員がちゃんと「歌える」という、ZEPにはない強みもある。

「クイック・ワン」のような、いわゆるロック・オペラのナンバーで、その威力は最大限に発揮されている。

録音のコンディションも非常によく、ハード、ヘビーであっても決してマッシー(ぐちゃぐちゃ)な音ではない。クリアでしかも力強い。

以後のライヴ・アルバムの作り方の、お手本的存在になったというのが、十分納得がいく。

それから、プレイヤーとしてみてスゴい!と感じるのは、リズム・セクションのふたりである。

ジョンとキース、彼らのステージでの「アバれよう」は尋常ではない。聴くたびにそう思う。

こんなライヴを演奏できるグループは、後にも先にも、やっぱり「ザ・フー」だけに違いない。

2001年1月14日(日)

ミッシェル・ガン・エレファント「ライヴ・イン・ト−キョー」(ヒートウェーヴ)

ライヴつながり、というわけではないが、今日はミッシェルの最新作、初のライヴアルバムである。

これは昨年7月26日、赤坂ブリッツでのライヴをほぼ完全に収録したものだが、はっきりいって録音コンディションは、「ライヴ・アット・リーズ」と比べずとも、決してよくない。かなり音のワレ、ツブレが気になる。

しかし、そんなものを軽く吹き飛ばすような「勢い」が、このディスクにはつまっている。

「気合い」といいかえてもいい。

とにかく、一曲目の「プラズマ・ダイヴ」から、陳腐な表現で恐縮だが、「フル・スロットル」なんである。

オイオイ、最初からそんなに飛ばしたら、最後までもつんかいな?と余計な心配をしてしまうくらい、フルパワーな演奏なのだ。

しかも、スゴいことにそのテンションを最後まで維持している。

例のワンパターン・パブロックを延々と聴かされるわけなので、ひとによっちゃ、ちょっとキッツイかも知れん。でも好きなヤツにはたまらんだろうな。

筆者も実はキライではなかったりする。

最近出版されたミッシェルのインタビュー本には、彼らのデビュー間もない頃の写真も載っているのだが、それを見てちょっと笑ってしまった。

カジュアルな服装でまるでミスチルのよう、隣のお兄さん風に、にこやかに微笑む4人の姿。

これが、どこでどう間違ってコワモテの四人組になったのか?

でも、そういった「変節」や「これっきゃできない的不器用さ」も含めて、ミッシェルは好感の持てるバンドだ。

けっして天下を取れるようなバンドじゃないし、音楽的にも間口は狭いが、うまく立ち回ろうなどとは絶対考えないピュアな姿勢、これが結構好きだ。

いわゆるブルースとは音楽のスタイルは違うが、そのココロは、どうしようもない情けなさを胸に抱きつつ生きていくブルースマンのそれと共通するものがある。

ミッシェル、その愚直さを最後まで捨てずにいてくれよな。

2001年1月20日(土)

ピーター・フランプトン「フランプトン・カムズ・アライヴ!」(A&M)

またもやライヴ盤だが、これは全世界で1200万セット以上を売った、ベストセラー中のベストセラーである。

もちろん、個人のライヴ・アルバムとしては、史上最高のヒット。

発表は1976年1月。今からちょうど四半世紀前である。

その年のアルバム・チャート上位を独占しつづけ、アメリカ国内では、ほとんど「一家に一枚」状態だったらしい。フランプトンは、一躍、時代の寵児となった。

発売の年、筆者はしがない浪人生。金欠病のため、このアルバムはFMをエアチェックして、テープで聴いていたという記憶がある。

でも、その年で一番リピートして聴いたテープではなかったかと思う。それくらい、あきのこない充実した作品であった。

ロック、ファンク、ジャズ、フォーク…。さまざまな味わいの音楽がブレンドされた絶妙なサウンド。フランプトンのヘタウマ的ボーカルが、みょうに耳になじんだ。

その「フランプトン・カムズ・アライヴ!」を、妻が昔購入したというCDでひさびさに聴くと、発表当時は見えなかったものが、見えてきた。

フランプトンは、あれだけの大成功をおさめたにもかかわらず、決してショー・ビジネスの才にたけた(たとえばコンピュータ業界におけるビル・ゲイツのような)ひとではなかった。

それは、彼がこのアルバム以後、余波で「アイム・イン・ユー」をクリーン・ヒットさせた以外は鳴かず飛ばずだったことでよくわかるだろう。

彼はきわめて純粋な、「音楽バカ」なひとなのである。

いってみれば、頑固な職人肌のひと。そんな彼とその音楽が、たまたま当時のアメリカ人の嗜好に(そのルックスも含めて)見事にハマったことで、人気が爆発しただけなのである。

ミーハーなアメリカ人は移り気だから、いつまでも彼を追いかけようとはしなかった、ということだ。

最近、彼の最新ライヴビデオが出ているのを山野楽器で発見し、そのパッケージ写真に絶句した。

1950年生まれのフランプトンは、現在50才、4月には51になる。

約20年ぶりに見た彼は―以前から、あのくるくるチリチリパーマは髪にヤバいんじゃないかと思っていたのだが―みごとな●ゲ頭となっていたのである。

おまけに眼鏡までかけ、かつての美男ロックスターの面影はどこにもなかった。

往時のファンならば、絶対に見たくはないであろう、そういう写真だった。

でも、彼は、昔とかわらぬ満面の笑みをうかべ、嬉々としてギターを弾いていたのである。

これでいいのだ、と筆者は思った。

「ロックスター」としての彼に世間から押しつけられた「期待」「思惑」、そういったものがきれいさっぱりと消えたとき、本物のミュージシャン、プレイヤーとしての人生が始まったのだ。

だから、今の彼は、25年前よりずっと幸福なはずである。

最後に76年当時の、彼のインタビューでの発言を記しておこう。

現在の彼を予見していたかのような、含蓄のある言葉だ。

「ぼくはいま、やっと自分の本当の夢に向かって歩き始めたんだ。

ぼくは、シンガーやソングライターとしてよりも、ただギタリスト

として認められたいんだ」/ピーター・フランプトン。

2001年1月21日(日)

べック・ボガ−ト&アピス「ライヴ・イン・ジャパン」(Epic/SME)

すまないが、4連チャンでライヴ盤である。どうしても、このアルバムも聴きたくなってしまった。

これは、タイトル通りBB&A来日時のライヴで、1973年5月18・19日大阪厚生年金会館での録音。

つい最近、日本のチャ−と共演しとったボガ−ト=アピスのコンビだが、ふたりの付き合いは67年にデビューしたヴァニラ・ファッジ時代からだから、相当長い。

一方、ヤードバーズに嫌気がさして66年暮れに脱退したジェフ・べックは、ジェフ・べック・グループ(第一期)を結成、活動していたがリズム・セクションの2名が脱退したため、かわりのメンバーをさがしているうちにボガ−ト=アピスに注目し、彼らに誘いをかけたのである。

ところが新バンド結成寸前の69年11月、べックが自動車事故を起こし負傷してしまい、その間にボガ−ト=アピスは新グループ、カクタスへと参加してしまう。

しかたなくべックは、翌年第二期のジェフ・べック・グループをコ−ジー・パウエルらと結成し、従来よりもファンク路線寄りの音作りをするようになる。

72年7月にはそれも解散、「君の名は」ばりのすれ違いを続けた彼らもようやくひとつとなって、9月にBB&Aとしてデビューすることになる。

前グループでのファンク路線からの反動か、BB&Aでは極めてハードロック色の強いサウンドを追求するようになった。

73年2月発表の1stアルバムは日本でも好セールス、はやくも5月には来日を果たすこととなる。もちろん、3名ともに初来日であった。

マクラが長くなってしまったが、当時のBB&Aの昇り調子と、日本でのハードロックファン急増の勢いがひとつになり、ものすごくパワーを感じさせるライヴ盤に仕上がっている。

日本のみでの発売であったが、英米のファンにもコレクターズ・アイテムとして垂涎の的であった。

また、トーキング・モジュレ−タ−といえば、前出のフランプトン・ライヴの「ショウ・ミ−・ザ・ウェイ」で使われたことであまりに有名だが、もとはといえば、この「BB&A LIVE」で使われてはじめてメジャーな存在になったのである。

オープニングは「迷信」、そう、スティービー・ワンダーが彼らに提供した、あの名曲である。その「迷信」から「プリンス/ショットガン」までの13トラック、全編ハードロック一色である。

カントリー調の「スウィート・スウィート・サレンダ−」でさえ、べックのギター・フレーズはこのうえなくスリリングだ。ソウル・バラード「アイム・ソ−・プラウド」も、しっかりと彼ら流のハードロックに仕上げている。

すさまじいエネルギーでビートを生み出す、当時世界最強といわれたリズム・セクションのふたりをバックに、べックのエキセントリックなギターが暴れまくるさまは、当時高校生になったばかりの筆者にとって、衝撃以外の何ものではなかった。

FMでエアチェックしたテープを、それこそ擦り切れるまで聴いたものだ。

仲間うちでも、「レディ」や「ジェフズ・ブギー」を完コピで弾けるヤツは、ヒーローだった。

その後の、日本のロックシーンに与えた影響から言えば、ZEPの「FOUR SYMBOLS」、DPの「MACHINE HEAD」に匹敵するといえるだろう。

旧世代のJL&Cにせよ、新世代のトライセラにせよ、原点はこのBB&Aであるといってよい。

一時はアナログ盤の廃盤でまったく手に入らず、筆者も中古レコード店を巡っては見つからず溜息の連続であったが、こうやってCDで89年に再リリースされたのはまことにうれしい。

いつだって、ロックがロックらしかった、あの時代にタイムスリップ出来るのだから。

2001年1月27日(土)

ウェス・モンゴメリー「フル・ハウス」(RIVERSIDE)

申し訳ない、またライヴじゃ(苦笑)。

ライヴ盤シリーズ、これでひとまず打ち止めにするので、ひらにおゆるしを。

実は、ウェス・モンゴメリーというアーティストは、筆者にとっては「特別」な存在である。

いってみれば、筆者をジャズ/ロック/ブルースの底無し沼に引きずり込んだ、最初の誘惑者なんである。

小学5年生の夏休み、筆者は貯金をおろして、新宿の小田急百貨店ではじめて自分専用のAMラジオを購入した。

これが「転落」の始まりだった(笑)。それもこのうえなく甘美な。

当時、TBSだったか、日曜の深夜に「ミッドナイト・ジャズ・リポート」というジャズ番組が放送されていた。

これを、どういうきっかけだか、10才のガキが聴きはじめ、そしてハマってしまったのである。

ある週、アルトの声がカッコいいDJのおねーさんが紹介したのは、ウェス・モンゴメリーというギタリストのリヴァーサイド盤であった。

アルバム・タイトルは、おそらく「ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター」、そしてこの「フルハウス」だったと思う。

速いパッセージ、そして特徴のあるオクターブ奏法に、筆者の耳は吸い寄せられた。なんて凄いテクニックなんだ!

それまで、ルイ・アームストロングのようなまったりした音を「ジャズ」だと思っていた筆者には、まるきり別の音楽に聴こえたのである。

そして、この天才ギタリストは68年の6月に急逝し、もはやこの世にいないのだということも聞いて、ガキなりになんともいえない感慨にひたったものであった。

私事はさておき、このアルバムはウェスがまだイージー・リスニング的な方向へシフトする前の、バリバリ、ゴリゴリのギターを弾いていた時代のもの。

1962年6月25日、カリフォルニア州バークレイのカフェ「Tsubo」にて録音。

パーソネルはウェス・モンゴメリー(g)、ジョニ−・グリフィン(ts)、ウィントン・ケリ−(pf)、ポール・チェンバース(b)、ジミ−・コブ(ds)。

もちろん、当代一流のプレイヤーが勢揃いである。リズム・セクションの3人は、マイルス・デイヴィスのバックもつとめていた巧者たち。

とにかく、今聴き直してみても、もの凄いスピード感のあるプレイだ。

ただ手くせで指を速く動かしているのではなく、譜面化されたものを見てみると、きちんと音楽的に高度に構成されているのがわかる、そういう速弾きなのだ。

三十年近くギターを弾いてきた筆者だが、ウェスのギターをコピーしようなどと思っても、まるきり不可能。おのれの腕前がいかに凡庸かを思い知らされる。

やはり、その才能は「別格」といっていい。

ウェスの前にウェスなし。ウェスの後にもウェスなし。

このアルバムでは、ワルツテンポのオリジナル「フル・ハウス」をはじめ、「マイ・フェア・レディ」でおなじみのスローバラード「アイブ・グロウン・アカスタムド・トゥ・ハー・フェイス」、ミディアム・テンポのスタンダード「降っても晴れても」、そして彼の本領がもっとも発揮されるアップテンポのバップ・ナンバー「ブルー・ン・ブギ」「S.O.S.」といった、バラエティに富んだスウィンギーな演奏が楽しめる。

ウェス以外のピアノ、テナーのソロも、ジャズ史上に残る名演といってよい。

ジャズのもっとも上質なエッセンスが、この一枚に結晶しているといえるだろう。

2001年1月28日(日)

トライセラトップス「A FILM ABOUT THE BLUES」(Epic/SME)

さて、ひさびさのスタジオ録音盤である。

デビュー3年目の1999年5月、シングル「GOING TO THE MOON」のスマッシュ・ヒットで、トライセラトップスはメジャー・シーンに躍り出た。

で、その年の秋には、このサードアルバムをひっさげてのツアーを開始、年末には念願の日本武道館での公演を成功させる。

「A FILM ABOUT THE BLUES」は、シングル「GOING TO THE MOON」「if」「SECON COMING」「UNIVERSE」の4曲を含む全11曲。

アルバム・タイトル中のBLUES とは、音楽ジャンルとしてのBLUES というより、憂鬱なこと、くらいの意味だそうだ。でも、もちろん、音的にも、ブルース的な陰影を帯びている。

とにかく、前作「THE GREAT SKELETON'S MUSIC GUIDE BOOK」に比べると、明らかにすべてのパートの音がハード、ヘビーになった。

従来の女性ファン向け「ポップなトライセラ」のイメージを脱皮して、男性リスナーが聴くに耐えうるサウンドに成長したといえるだろう。

和田唱のギター・プレイにも「熱い」ものがある。たとえば、「DANCE」「CHILDHOOD」でのレスポールの「泣き」は、なかなかのものだ。

決して「今ふうの」音とはいいがたいが、ロックの王道をきちんと押さえた、「楷書」のようなハードロック。

まだまだ、アイドル的な扱いを受けやすく、実際、アイドルロッカー的な人気もなければここまで売れることはなかったのだが、着実に実力をたくわえていると見た。

あまり語られることはないが、ドラムスの吉田佳史も相当な実力がある。

ライブ・ビデオ等での演奏を聴けば、その安定感、そして攻撃力は、もはやカーマイン・アピスだってメじゃないと思うのだが。

新世代の彼らは、我々が長らく持ってきた、英米ロックへのコンプレックスを軽く吹き飛ばすくらいのパワーを持っている。

あとは、まだ青臭さの残る和田のボーカルが伸びれば、相当なところまで行くはずだ。

2月21日には、ひさびさのニューアルバム「KING OF THE JUNGLE」がリリースされる彼ら、まだまだ成長を続けていくにちがいない。


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