音盤日誌『一日一枚』


ノン・ジャンル、新旧東西問わず、その日聴いたレコード・CDについての感想文です。

2006年6月4日(日)

コレクティブ・ソウル「HINTS ALLEGATIONS AND THINGS LEFT UNSAID」(ATLANTIC 82596-2)

AMGによるディスク・データ

きょうからは当分、短評形式でいきますので、よろしくご了解のほどを。

コレクティブ・ソウル、92年米ジョージア州ストックブリッジにて結成。翌年、アトランタのインディーズ・レーベル、RISING STORMより本盤にてデビュー。95年には大手アトランティックに移籍して、再デビュー。現在に至るまで、「SHINE」「DECEMBER」などいくつものスマッシュ・ヒットを持つ中堅バンドだ。

一応、ジャンル的にはオルタナということになっているが、実際にその音を聴くと、さまざまな要素を含み持っている。

60年代以来の伝統的なハード・ロックだったり、パンクだったり、そしてR&B/ソウルだったり。

アレンジは今ふうでも、リード・ボーカリスト、エド・ローランドのガッツあふれる歌いぶり、あるいはバックコーラスには、「ブルーアイド・ソウル」の脈々とした流れを、感じとることが出来る。

日本では、残念ながらほとんど知名度がないが、玄人筋ではしっかり愛聴されているようで、現在は解散した「WANDS」の初期のサウンドにも、大きな影響を与えたようだ。

最近のヒットは04年の「BETTER NOW」。これなんかホント、昔のデイヴィッド・ボウイみたいで、カッコいいんだよな。

本デビュー盤は、そんな彼らの原点とでもいうべき13曲を収録。

最初のヒット「SHINE」をはじめとして、イキのいいポップ、ソウル、ロックがつまっている。

いまや死語となってしまった「ブルーアイド・ソウル」ではあるが、コレクティブ・ソウルが活動している限り、その本質はまだ健在だと思っている。

ロバート・パーマー亡き今は、エド・ローランドに強く期待したい。

<独断評価>★★★★

2006年6月10日(土)

V.A.「THE STORY OF THE BLUES」(COLUMBIA/LEGACY C2K 86334)

AMGによるディスク・データ

「ブルースの物語」というタイトル通り、1926年録音のBertha "Chippie" Hill「Pratt City Blues 」に始まり、2001年録音のボブ・ディラン「CRY A WHILE」 に至る、ブルースの歴史をたどる二枚一組のセット。03年リリース。全42曲収録。

この手のコンピは各種出ていて、いろんな編集のしかたのものがあり、どれが決定版というものでもないのだが、この二枚組は、戦前のアコースティック・ブルースにかなり重きを置いている。古いブルースが好きな筆者的には、ツボの一枚なのだ。

トップに64年ガーナ録音、Fra-Fra Tribesmenの「Yarum Praise Songs 」をもってきたのには、意表をつかれる。レコーディング時期は比較的近年だが、ブルースの原初的状態をまだとどめている、その素朴な歌声に新鮮な感動をおぼえた。野外で歌われる労働歌もまた、ブルースの重要なルーツなのだと思う。

おなじみのカントリー・ブルース、フォーク・ブルースの巨人たちの演奏が続く。ミシシッピ・ジョン・ハート、ブラインド・ウィリー・マクテル、チャーリー・パットン、ブラインド・レモン・ジェファースン、レッドベリー、エトセトラ、エトセトラ。単独では音盤がほとんど入手出来ない二線級(といっては失礼だが)のシンガーもいろいろと収録されているのも、聴きどころ。ペグ・レッグ・ハウエルとかバーベキュー・ボブ&ローンチング・チャーリーとかね。

そういった先達たちの、のどかなサウンドは、ブルース=鬱っぽい音楽という世間に流布されたイメージとはだいぶん違うんだよな。

ブルースとは、きわめて多面体的な音楽なんだと、つくづく思う。ときにはフォーク、ときにはジャズ、そして時代が下ってはロックと相互に影響し合い、表現スタイルを徐々に変えつつ、現在に至っている。

でも、そのコアな部分にあるものは、100年経ったいまも、本質的に変わらない。

それは、ブルース=生活に根ざした音楽であり、日々の生活のむき出しの感情こそが、ブルースの表現の核にあるのだということ。

形式的な美しさよりも、人間の心の真実を問うことこそが、ブルースの本質なのだ。

そういう意味で、ボブ・ディランの音楽をブルースに連なるものと考えている本盤の考え方には、大いに共鳴出来る。ディランのあの歌詞、ボーカル・スタイルは、ブルースの存在なしには、おそらく出てこなかっただろう。

まあ、理屈っぽいことを言うはこのへんでやめておこう。ブルースも基本的には芸能、娯楽音楽のひとつだ。しち面倒くさいことなど考えず、そのサウンドに身をゆだねればいいんである。

個人的には、ベッシー・スミス、リリアン・グリン、チッピー・ヒルら女性シンガーの、ジャズィな歌いぶりに惹かれるものがあった。

シカゴ系あたりがお好きな向きにはちょっと物足りないだろうが、たまにはこういうまったりしたオールド・タイミーなブルースもいいもんでっせ。

<独断評価>★★★☆

2006年6月17日(土)

ビョーク「ポスト」(ポリドール POCP-7040)

AMGによるディスク・データ

ビョーク、95年のセカンド・アルバムを聴く。ネリー・フーパー、グレアム・マッセイ、ビョークによるプロデュース。

東洋人のような不思議な顔をしたこのアイスランド女は、顔立ちだけでなく、その作り出す音楽もまた、過去に登場したどのようなスタイルのポピュラー・ミュージックと似ていない。たぶんこれからも。

まさに、空前絶後な存在。

その個性的なボーカル・スタイルは、歌う(Sing)というよりは、叫ぶ(Scream)というほうが近いといえるだろう。

これこそが歌うという行為の、本来的なありかた、原初的な形態ではないかとも思う。

彼女の気まぐれで、お茶目で、直情径行なキャラクターそのままな声。

前衛的なサウンドをバックに配しながらも、彼女の存在はあくまでも「ポップ」なのである。

多くの人々の理解を拒むアヴァンギャルドな音楽は、この世界にゴマンと存在するが、その手の音楽とは完全に一線を画し、なおかつ英米のマンネリズムに陥ったポピュラー・ミュージックともまったく違うユニークネス。

ふだん、アメリカ的というか、ブルース的なイディオムを多少なりとも含む音楽ばかり好んで聴いている筆者にとって、これはとてつもなく心地よい衝撃体験である。

かつてブラジル音楽が、アメリカ音楽への強烈なカウンター・パンチとして機能したように、ビョークの生み出すポップが、停滞している英米音楽へのカンフル剤となりうるのではないかと思う。

いまのポップ・ミュージックが置き去りにしてしまったこと、「歌う」という行為の重要性を、もう一度思い知らせてくれる一枚。

10年以上前の作品ながら、新鮮な衝撃をいまだにもたらしてくれる。

ビョーク。恐ろしいばかりの才能の女(ひと)である。脱帽。

<独断評価>★★★★

2006年6月25日(日)

ジョー・パス「BLUES FOR FRED」(ビクター音楽産業VDJ-1164)

AMGによるディスク・データ

昨日のパーティ&二次会で燃え尽きてしまい、いまは完全に放心状態なので(笑)、きょうは短評にて失礼。

ヴァーチュオーゾこと、ジョー・パスのソロ・レコーディング。88年録音。エリック・ミラーによるプロデュース。

不世出のダンサーにして、俳優、歌手でもあったフレッド・アステア(1899-1987)にささげた一枚。

アステアの代表的レパートリーに、自作のブルース2曲を加えた構成。

もうこれが最高の選曲。アーヴィング・バーリンの「チーク・トゥ・チーク」をはじめ、ガーシュウィン兄弟の「オー、レディ・ビー・グッド」「フォギー・デイ」、コール・ポーターの「ナイト・アンド・デイ」など、ジャズ・ヴォーカル・ファンならなじみの深い名曲ぞろい。

これらを、オーバー・ダビングなし、すべて一発録りで演奏するわけだが、さすがギターの匠(たくみ)、ジョー・パスは、愛用のアイバニーズ一本で、見事弾き倒している。

考えてもみて。まったくバックにリズム楽器がない状態で、すべてのナンバーを弾いてるんだぜ。

スローなバラードだけならまだしも、非常にスウィンギーな曲調も、すべて自分自身の内側にあるリズム感だけで弾くわけだから、これを名人技といわずしてなんといおう。

エラとのコラボ盤のときにも強く感じたことだが、彼の弾くベース・ライン、本当によくスウィングしている。

本盤録音当時、パスは59才。まさに酸いも甘いもかみわけた世代。音楽のありとあらゆる要素を、ギター一本にぶちこんで、その可能性を最大限に追究している。

そして、単なるテクニックひけらかしに終わっていないのも、素晴らしい。

なにより、フレッド・アステアの「粋」なひととなりを愛し、その「粋」を音楽で表現してみせた。ジョー・パスもまた、アステア同様、偉大なエンタテイナーであった。

パスもこの世を去って12年になるが、その歌心あふれるプレイは、末永く聴きつがれていくに違いない。

<独断評価>★★★★


「音盤日誌『一日一枚』」2006年5月分を読む

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