僕はこんな歌をうたってきた


管理人MACが、これまでの人生でうたってきた歌を紹介するページです。

<第3回>

さて、近藤君とのユニットはその年限りとなり、僕はまた単独での活動に戻った。

翌74年、また文化祭の季節となり、フォーク村も三年連続で文化祭に参加することになった。

僕も今回はソロでステージに上ることにした。

そのころの日本のミュージック・シーンといえば、数年前に吉田拓郎や六文銭が火付け役となったフォーク・ブームがさらに拡大。

呼称も「ニューミュージック」に変化し、荒井由実、井上陽水、大瀧詠一、かぐや姫、アリス、サディスティック・ミカ・バンド、チューリップ、甲斐バンドなど、さまざまなタイプのアーティストが人気を博していた時代であった。

そんな中でも、ひときわ異彩を放っていた、ひとりのシンガーがいた。

48年宮崎生まれ、作曲家浜口庫之助氏に師事し、東由多加氏率いる人気劇団「東京キッドブラザーズ」の音楽担当として名を上げたシンガー・ソングライター、「下田逸郎」である。

長身痩躯にロングヘアーという、俳優を思わせる繊細な容姿。特徴あるファルセット・ヴォイス。そして作りものではない、ストレートな感情をうたった歌詞。

他の誰にも似ていない、強烈な個性を持ったこのシンガーに、僕は憧れた。

当時下田は、深夜放送のディスクジョッキーもやっており、番組途中でガットギターを手にしては、いくつかの曲を弾き語りで聞かせてくれたものだ。

初期のキティレコードからリリースされたアルバム「飛べない鳥、飛ばない鳥」(73年)からのいくつかの曲−たとえば「帰ろう」「みんな誰でも」など−は、彼ならではのやさしさ、あたたかさ、そしてノスタルジーに満ちていた。

そんな下田の新作は、プロデューサーに元モップスの星勝、プレイヤーに高中正義、小原礼らをむかえ、ロック性も兼ね備えたスケールの大きなアルバムに仕上がった。

「陽のあたる翼」である。

これを何度となく聞き込んでいた僕は、迷うことなく、次のステージで歌うレパートリーにすることを決めた。

この中から、弾き語りむきの三曲に絞った。

まず、アルバムのオープニング曲、「からだふたつ こころふたつ」

男と女が愛し合うさまをうたう、ゆったりとしたテンポのバラードだ。

次に「タバコ」

淋しくもあり、でもどこか心が癒されるようでもあるアルペジオの響きが印象的な、ナンバー。

そして最後に「ドラマ」

恋人に別れを告げる男。でも、その目には暗さはない。あくまでも前向きに、これからはふたり別々に生きていけばいいという、力強さに満ちた歌。

この、お気に入りの三曲を文化祭まで練習した。

しかし、ワンステージすべて弾き語りだけ、というのは、ちょっと物足りなくもあった。

そう、けっして「ロック心」を忘れたわけではない僕にしてみれば、一曲は大音量のロック・ナンバーをぶちかましてみたかった。

そこで、フォーク村では人気・実力ともにナンバーワンのバンド「MOKU」でドラムスをたたいていた吉田君、「MOKU」のオリジナル・ベーシストだったが、その年脱退してソロで歌い始めた中川君に声をかけて、一日だけのセッション・バンドを組むことにした。

曲はエルモア・ジェイムズ「ダスト・マイ・ブルーム」、というよりはそれを換骨奪胎したヤードバーズ「ナッズ・アー・ブルー」

さらにその曲に、インチキな英語詞をくっつけたオリジナル(これって、なんかブルースマンの常套手段って気もするな)をやることにした。

ライヴ当日の僕は、ハンチングに、サスペンダー・ズボン、黒のネクタイに黒ベストという、ワケのわからないブルースマンもどきの格好。

まずは弾き語りで三曲。あまり、というかほとんど知られていない曲だっただけに、オリジナルなのかカバーなのか、うまいのかどうなのか、観客としては「よく判らなかった」というのが実情だったと思う。

最後に、ドラムスの吉田君、ベースの中川君が登場し、僕もアコギからグレコSGに持ちかえると、観客も「おっ、ロックもやりよるんか」という感じで、少しは反応が出てきた。

おなじみの三連符のイントロ演奏からヴォーカル、そしてソロと、ほとんど場当たり的なアドリヴ(それもそのはず、リハは一回しかやっていなかった)で、一回きりのステージをなんとか乗り切った。

ひさしぶりのロック演奏、ひさしぶりのライヴに、出来ばえはともかくとして、僕の気分はハイだった。

「やっぱこれは、キモチいい」、正直にそう思った。

そして、「MOKU」のような、メンバーがきちんと揃ったバンドをうらやましく感じた。

残念ながら、僕がちゃんとしたレギュラー・バンドを組めるようになるには、大学入学まで待たなくてはならなかったのだが。

<第2回>

中学3年の文化祭に次いで、僕が人前で歌うチャンスは、翌年まためぐってきた。

73年の春、高校にエスカレーター進学した僕は、新しいクラスメート、近藤君と出会うことになる。

彼は某私立大の附属中学に通いながらもその上の高校には進まず、僕の通う高校に受験して合格、新しい仲間となったのである。

彼の専門はキーボード。中学でもロック・バンドを結成、BBAやユーライア・ヒープなどのハード・ロックやプログレッシブ・ロックをやっていたが、その演奏はかなり高いレベルにあった。

われわれフォーク村の仲間も、以後、彼の高い音楽性に相当刺激を受けることとなる。

そんな彼と、たまたま音楽の話でウマが合い、ひとつユニットでも作って、文化祭に出ようかということになった。

ある週末には、彼がお母さんと二人暮らしをしているアパートまで遊びに行って、彼のレコード・コレクションを聴かせてもらったりした。

そんなアルバムの中に、ジョン・レノンの「イマジン」があった。

71年リリースされた、彼の代表的ソロ・アルバムだ。

そのアルバムのタイトル曲「イマジン」なんぞを聴いているうち、「これ、やってみようか」ということになった。

さっそく近藤君は、達者な腕前でまたたくまに「イマジン」をコピーして聴かせてくれた。

あともう一曲、バラードだけでなく少しビートのある曲もやってみようということで「イッツ・ハード」も取り上げることにする。

その他、近藤君が中学以来のレギュラー・バンド「WET APPLEGH」でステージのオープニングに演奏していた「ヘンリー八世の六人の妻」(もちろんリック・ウェイクマンの作品)からの抜粋、そしてストーンズの「ホンキー・トンク・ウィメン」をピックアップし、ざっと練習した。

文化祭での発表場所は、日頃音楽科を習っている教室。

そこに僕はエレキギターとアンプを持ち込み、近藤君はグランドピアノ。

音楽科の教師が見たら目をむくだろうが、かまうものか、文化祭期間中はおれたちの解放区だとばかり、大音量でのライヴが始まった。

まずは近藤君のピアノ・ソロで「ヘンリー八世の六人の妻」。さすが弾きなれた曲だけあって、ダイナミックな演奏だ。

終わると、その余韻もさめないうちに「イマジン」のイントロが始まる。

彼のピアノだけというシンプルなバックで、なんとか僕は歌い終える。

続いて、エレキギターを手に取り、始めたのは「イッツ・ハード」。

ろれつが回らず、だいぶんヘロへロ気味の僕の歌ではあったが、まあ無事終了。

ラスト・ナンバーは「ホンキー・トンク・ウィメン」。乗りまくる、近藤君のピアノに合わせて、僕も叩きつけるようにこの曲を歌う。

はっきり言って、僕の歌もギターも、とても聴くにたえるものではなかったが、危なげのないピアノ演奏に助けられて、なんとか形がついた、そんなステージだった。

それ以来、僕の評判は…まるで立たなかったが(笑)、近藤君というスゴいキーボーディストがいる、という噂は学校中にまたたくまに広まった。

その数年後、彼はプロ(金子マリ&バックスバニーのセカンド・キーボーディスト)としてデビューしてしまう。

一方、僕は、ただのアマチュアのまま、30年近くを過ごすことになる。

見事に差がついてしまったわけだが、まあ、実力だからしかたがない。

近藤君、現在はいくつかのプロのバンドに参加して活躍しているようだが、彼のような実力派プレイヤーと一時でも組めただけ、大変な栄誉であると思っている。

彼ほど、上手いキーボーディストとは、その後一度も出会えなかったぐらいだから。

さて僕は、今回初めて本格的に英語詞の曲に挑戦したわけだが、発音といい、ノリといい、予想以上に難しいことを、実感した。

それは、30年ほどたった現在でも、いまだに克服しきれていない(笑)。

<第1回>

僕が初めて人前で歌らしいものをうたったのは、中学2年のときだったか、学年全体でバス旅行に行ったときに、その車内で歌った「別れの朝」だったと思う。ときは1971年の、たぶん夏。

この歌は、前年にドイツの男性歌手ウド・ユルゲンスが自作自演でヒットさせ(邦題は「夕映えのふたり」とか、そんなタイトルだった)、それをデビューしたばかりの「ペドロ&カプリシャス」が日本語(訳詞はなかにし礼)でカバーしてヒットさせたのだった。

(ちなみに当時のリード・ヴォーカルは高橋真梨子ではなく、前野曜子。)

なんでそんな曲を選んだのか、今となってはさだかではないが、当時はレパートリーなど何もなかったので、とりあえず覚えていた歌をうたった、そんなところではないかと思う。

初めて人前でうたっただけに、さすがに緊張して、声が妙にふるえていたこと、それだけは鮮明に覚えている。

でもこれ以後、しばらく人前でうたう機会はなかったように思う。

本格的な「うたデビュー」は、それから一年以上後になる。

すでに「ギター偏愛記(上)」において書いたように、僕は中学3年の春に初めてフォークギター、そしてそのすぐ後にエレキギターを購入する。

そして同学年の仲間たちが結成した同好会「フォーク村」に参加し、自分でも歌をうたおうという気になって来るのである。

まずは11月初頭に行われる、中学の「文化祭」のステージに出演することが決まった。

さて、何をうたおうか。僕は思案した。特に誰かと組んでやっていたわけではなかったので、当然、ひとりで弾き語りということになる。

当時、弾き語り向きの曲といえば、なんといっても「よしだたくろう(吉田拓郎)」が人気であったが、自分以外にも彼をうたおうというひとが何人かいたので、バッティングはさけたかった。

ひとつには、まだまだ練習不足で、ギターの腕前がヘタだったこともある。

同じアーティストをカバーしたのでは、ヘタさ加減がモロばれになってしまう、そういうおそれがあった。

かといって、オリジナル曲で勝負できるほど、作曲が得意なわけでもなかった。

いろいろ考えた末、僕が選んだのは、他人が絶対やりそうにないアーティスト、「シバ」の曲であった。

シンガー、シバ。本名・三橋誠。

マイナー系漫画誌「ガロ」に書いている漫画家でもあった彼は、フォークというよりは、ブルース・シンガーとよぶほうがふさわしいくらい、日本人では珍しくブルース感覚をもった弾き語りミュージシャンであった。

そのシバの「夜汽車にのって」(高田渡も「夜汽車のブルース」というタイトルで同曲をカバーしている)を、僕は文化祭までに練習し、そして披露したのであった。

本当は彼のように、マウスハープ(ハーモニカ)も出来ればよかったのだが、とりあえずギターと歌のみ。

出来映えは、デビューステージだけに実にヘタくそであったが、それはそれで自分にとっては鮮烈な体験だった。

ザ・バンドが「ステージ・フライト」という曲でうたっていた、あの、めまいにも似た「感覚」を僕も自ら味わってみて、以来、「病みつき」になってしまったのである。

「恥ずかしい、でも、キモチいい」という、宇能鴻一郎の小説のセリフみたいな(笑)、感覚。

この麻薬のような快楽を味わったこと、これがわが人生における最大の転換点だったといって過言ではない(笑)。(次回へつづく)


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