投稿ページ<定型文学とブルース>

俳句とブルースハープをこよなく愛する粋人、葉桜さんからの寄稿です。


定型文学とブルース    Text By Hazakura

 

先日、とあるブルースのCDのライナーノーツを読んでいましたら、日本のブルースファンの熱狂振り、質の高さについて書いてありました。米国のミュージシャンたちは、日本のこのようなファンのため、来日を心から楽しみにしているとのこと。

どうして極東のこの国に、このようなブルースファンたちが生まれたのか。当方、ブルースはまったくの聞き始めの上、乱文。うまくいくかどうか分かりませんが、ちょっと前から考えていたことをここに書いてみようと思います。

題して「定型文学とブルース」

三つの類似点から述べてみようと思います。

 

1 定型

日本の文学の最も古い形は、和歌です。で、ご承知の通り和歌と言うのは、57577の定型文学です。これが江戸時代になってさらに縮まって、初めの575だけが独立して出来たものが俳諧。今、自分たちが一般に俳句と呼んでいるものです。

この文学形式の特徴は、その定型であることと、さまざまな決まりごとがあることにあります。「や」「かな」などの切れ字。枕詞といういわば常套句。あるいは、季節を表す言葉を最低ひとつは入れないといけないと言う季語。これらの決まりはちょっと見た限り堅苦しいように思えますが、慣れてしまえばこの規則だけ守っていれば何を詠んでもいいのですから、かえって自由を感じられます。

こうした点、ブルースに似たところ、ないでしょうか。十二音節という定型性、しかもその中で起承転結が組み立てられているという、ちょっとした規則性。そしてその規則の中でブルースマンたちは自由に音を操り遊んでいる。

案外、ブルースを好きになる日本人の心性の芯には、この文学形式を好んで遊んできた古い伝統が根ざしているような気がしています。

 

2 即興性

もちろん和歌や俳句が、文学作品として表に出るまでには何度も推敲は重ねられていくのですが、そもそも、これらの文学の味はその即興性にあります。一瞬にひらめいて、一瞬に作ってしまうわけです。江戸の時代の小説家であり、俳人でもあった井原西鶴という人は一日に千句、あるいはこれは信憑性に欠けますが一日に二万三千五百、詠んだといわれています。とにかく、はじめのインスピレーションが大切。勢いと柔軟性が決め手です。

で、振り返ってブルースですけれども、こちらもその醍醐味は即興演奏にあります。演奏者がどんな当意即妙を見せてくれるのか、または、どんな内奥まで響く音を聞かせてくれるのか、それがまさに聴き所。そこにその演奏者自身の人間性もふと覗いたりします。

 

3 作者即鑑賞者

その形式が分かりやすいため、すぐ入っていける。和歌好き、俳句好きというのは、例えば芭蕉の句を読んでただ、いいな、と思っているだけではありません。当人がその場で作ってしまう。作ってしまえる。そして、一首でも一句でも作ってしまいますと、もう、彼は歌人、俳人の仲間入りをしてしまうわけです。鑑賞者がそのままいっぱしの作者であるという点が、この文学の特徴です。小説なんかですとこうはいきません。

ブルースでも、見た感じですと、鑑賞者の相当数が実際何かの楽器をやるようです。アーティストの演奏を丸々コピーするのではなくして、俺ならこうやると、いろいろ工夫して自分のものにしちゃうところが楽しい。めちゃくちゃうまい、というのでなくても、人に聞かせちゃって許されるらしい。そこのところブルースの懐の大きさを感じます。クラシック音楽やジャズでは、とてもこうはいかないと思います。

最後に、もうひとつ思い出した共通点は、定型文学もブルースも、これだけで食ってる人間は限りなくゼロに近いほど少ないという点。鑑賞者と作者の関係が売ったり買ったりという間ではなく、純粋に楽しむため、ひとつになっているということでしょうか。

 

以上、拙い文をだらだら書いてきましたが、書きながらブルースの魅力を再確認した次第です。

ブルースファンと、「ブルースマニアの巣」のこれからを祈りつつ、筆を置きます。(了)

 

民宿葉桜 葉桜さんが運営される俳句サイトです。


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